好きなものには金を払え
昨日、銀座へ行くと歩行者天国でハングドラムの路上演奏をしていたので、つい足を止めた。
(ハングドラムとは、腕で抱えるほどの大きさの円盤状の楽器だ。つるんとした円盤から様々な音色が出るので、見た目からして引き寄せられる)
結構な数の通行人が奏者のお兄さんを囲んでいて、私もその輪に加わった。
お兄さんの前にはチップを入れる箱、自作のCDが入った箱、宣伝チラシなどが置いてあったが、いかんせん距離が遠い。
輪の半径が大きいのと集団心理が作用して、気軽にチップを入れたりチラシを取りに行くには少しばかり躊躇してしまう。
小さい子供たちがまるで肝試しのようにチラシを取りに走ったのを見て、ようやく私も勇気が出た。
CDを買うだけのお金を持ち合わせていなかったのでチップとチラシだけ失礼したが、それだけでもだいぶ満足できたように感じた。
私はなぜあの時満足できたのだろう。
あのお兄さんにチップを払えたからだろうか。
しかし『お金を恵んでやった』とかいう傲慢な気持ちではないようだ。
少し考えてようやく腑に落ちる答えが出た。
私は、あの時自分が良いと思ったものを正しく評価できたと感じたから嬉しかったのだ。
もちろん心の中で「お兄さんすごい!」と思うだけでも評価にはなるが、それは独白に過ぎない。
何よりチップは、相手にも伝わり、更に(ほんの少しだが)売り上げにも貢献できるというコスパの良いシステム。
路上演奏の人だってなにもお客さんの拍手や笑顔だけでお腹いっぱいになるわけではないのだから、やはり満足したなら少しでもチップを投げることは重要だ。
一番良いのはCDや本を買うことだけれども。
私は自分が良いと思ったものは、必ず相手にそれを伝える事にしている。
面白い本を読んだなら必ず作者の方に手紙を書くし、応援したい本があれば書店で取り寄せてでも購入する。
違法サイトで読むなんてのは論外だ。
自分の好きなものを正しく評価したいなら、手っ取り早いのはお金を払うこと。
そしてもっと良いのは、お金を払って感想も伝えることだろう。
そりゃあ感想だけでも泣くほど嬉しいが、活動を続けるのに必要なのはお金だ。
どちらも欠けてはいけないと思う。
美術分野のお仕事をボランティアだと思っている人はよく見かけるが、あれもスキルが必要な立派な仕事なのだから利益が発生して然るべきだし。
何はともあれ、好きな作家さんは1円でも100円でも自分が出来る範囲での支援をしようと思った。
映画『ミスト』の感想
注)ネタバレしかない。
映画『ミスト』を観た。
あらすじとしては、こんな感じである。
まず主人公は、息子と妻がいる男。
ある日息子と一緒に近所のスーパーへ行くと、外にもくもく霧が立ち込める。
その霧の中には得体の知れない怪物がいて、スーパーの中で籠城する人と怪物との防衛戦というわけである。
パニックホラーっぽい感じの展開が色々あってラストに行くのだが、このラストが腑に落ちなかった。
というのも私はハピエン厨であり、最終的には主人公以外全員死んだから。
しかもその死に方というのが何とも言えないのだ。
主人公と息子(ショタ)と老婆と老爺と女の人、の5人が車で霧を抜け出そうとするのだが、ガソリンが無くなる。
ここで終わりかと思われたその時、主人公の手元には銃と4発の弾丸が。
そして主人公は、息子(ショタ)諸共残りの4人を射殺し、自らも死のうと車外に出て霧の中で怪物が来るのを待つ。
で、そこに現れたのは軍隊の助けだ。
つまりもう少し待てば助けが来たというところで、主人公だけが生き残ってしまったという。
何とも腑に落ちないバッドエンド(だと私は思う)。
そもそも『幼児とおばあちゃんは死なない』というルールを何となく確立させていたので、幼児とおばあちゃんも死ぬとは思わなかった。鬱。
というわけで『悪の教典』を観た。
こっちも登場人物のほとんどが死ぬストーリーではあるが、死に方が爽快なので後味が良い(と私は思う)。
主人公のハスミンはサイコパスだが高校教師。
そんな彼が夜の校舎で、生徒達を軽快な音楽と共に猟銃でバカスカ撃ち殺していく様は爽快としか言いようがない。
明るい音楽に、夜の校舎にきらめく電飾、飛び散る鮮血!
それらがよりハスミンの異常性をかき立てて、エンタメ感満載なのだ。
あと殺されている方も楽しそうなのである。(もちろん画面上では泣き叫んで助けを乞うている)
リズミカルに機械的に、淡々とベルトコンベアの上のパンを裏返すように銃をぶっ放していくハスミンも爽快。
混乱して逃げ惑い呆気なく殺される生徒、試行錯誤と抵抗の末恨み言を吐きながら殺される生徒、信頼しきっていたハスミンに跪きひたすら命乞いする生徒。
みんな違ってみんな良い。
エンディングでもポップな音楽が流れているのだが、血塗れの生徒達が起き上がってみんなでダンスをする流れでも良いと思った。
それくらい愉快。
もちろん『ミスト』を批判するつもりはサラサラない。
怪物のデザインもカッコ良かったし、宗教家のおばさんは良いキャラだった。
人間が神を信じていく過程と宗教が完成していく様子が分かりやすく描かれていて、あれは宗教学の授業で観ても楽しいのではと思う。
ショタとおばあちゃんが死んだから許せないだけで。ええ。
というわけで『ミスト』の腑に落ちない感を中和させる『悪の教典』の感想であった。
『パンク侍 斬られて候』を観に行った
今日、『パンク侍斬られて候』、通称パンク侍を観に行ったので感想をば。
一言で言うと、カオスだった。
原作未読なので映画自体の感想しか言えないが、いやストーリーもあんな感じなんですか。
宣伝を見た段階での知識で、映像としてはなんかまあ極彩色なのを期待していた。
極彩色の画は裏切られなかったし、大概どのシーンも良い画だったので視覚の満足はできた。
でもストーリーはよく分からない。
強調しておくと、つまらないのではなく、よく分からない、のだ。
きっと大半の人がそう言うと思う。
後半になるにつれてカオスさが加速していくので、映画を見ている私を俯瞰して見る、みたいな状況になっていた。
「この映画を見ている自分、今何してんだろう……」と。
役者さん方の演技はとても輝いていた。
特に好きなのは、染谷将太さんやらマサル役の人(若葉竜也さん)やら、付き人の黒子を演じていたあの二人(小川ゲンさん、小橋川建さん)やら。
あの黒子は結構気に入っていて、映画の宣伝にも使われている『宇宙が、砕けますよ』のセリフのキャッチーさと、二人の声の良さが好みだ。
ちなみに上のセリフは、劇中では一回しか出てこない。
映画の感想としては『よく分からない』。
この映画に対して、感想や批評だと言って長々と『この作品には現代人への皮肉が〜』『現代のなんちゃらを皮肉でぶったぎり〜』みたいな事を述べる方が負けだと思う。
まあ裏を探したくなるほどにカオスな映画でした。
ニートと『選択』について
人間は、『選択』によって消耗するという事を切に実感したことがある。
昔、不登校の時期があった。
理由としては鬱病を患ったからであるが、当時は朝起きて布団から出ることが出来ず苦痛だったと記憶している。
まず、朝起きる。
そして重たい体をぶら下げた脳みそで、学校へ行くか否かを考える。
この時点でもう『選択』だ。
こういう時の解決策としては、そもそも考える事を放棄して機械的に朝の支度をする、というものがあるが、確かに正解だなと。
いちいち自分で自分に選択肢を用意させない、というのは色々と楽な事だ。
不登校になると、自分がどこの団体にも所属しない『個人』だという事を思い知る事になる。
当時の私は部活や習い事なんかもしていなかったものだから、余計に孤独だった。
人はきっと誰しも、肩書きが消えた時一番孤独を実感する生き物なんじゃないだろうか。
『個人』になると、目の前には無限の選択肢が用意されてしまう。
例えば学校や企業に所属しているうちは、平日は学校か会社へ行けばいいわけで、そこで何をするかというのは事前に決められているのだから楽なものだ。
いや、そりゃあ毎日の作業は楽じゃないけれど、社会の歯車でいるうちのほうが全然孤独感がないと思う(個人の解釈です)。
何も考えずただルーティンをこなす日々、そこに個人の選択が関わる事は少ない。
ただ、一人になるとどうだ。
毎日何も予定がない。
これは裏を返せば、毎日どうやって過ごすのか全て自分に委ねられているということだ。
毎日やる事を自分で決めなければならない孤独、疲労。
一切のやる気が出なくなる『鬱』というのは、選択に疲弊しきってしまった事への防衛装置か何かなんだろうなあ。
身体が、脳が選択をすることを拒んでるのが鬱なんだろうから。
いや鬱の話がしたいわけではなく、要するに『人間って社会の外にいる間が一番孤独よね』という話である。
大海に一人取り残され、360度何処へでも進んでいける状況がいちばんキツイ。
というのを、また実感し始めた日々である。
一人反省会
今日は、個人的に失敗した。面接の話です。
大学生ともなると、数々の面接をこなさなければならない。
毎日毎日ちぎっては投げ、とまではいかないが、あの面接特有の緊張感というのが私はどうも得意でない。
面接が得意な人なんかいないよ、なんて一般論は当てはまらない。
実際、面接好きだわって人はいるんだぞ。
で、その肝心な面接の場で、失敗してしまったなー、と思った。
面接官と話している間、どこかモヤモヤしたものを抱えたままそれを終始拭えなかった。
これなんか相手に刺さってないな。
あー、今日の私は調子が良くないな。
それで数時間経って、ようやくあの時の質問の最適解を思いつく。
しかも、よりによって、明日に向かって切り替えようという気分の時にだ。
まあ過ぎた時間は取り戻せないというのは分かりきったことであるが、それでも後悔してしまう。
サンボマスターをリピートしても晴れない気分の日だってあります。
掛け違えたボタンだけ外しても 僕らは何にも変わらないだろう(サンボマスター / 光のロック)
その通りです。
私は打たれ弱いものだから、失敗が立て続けにおこると、もう人生駄目だという気分になる。
ああもうダメだダメだ、終わり!終了!今日はもうおしまい!!!
胸中は、癇癪を起こした指揮者さながらである。
ただ、私だけが指揮棒を放り投げて帰っても、演奏は勝手に進んでいく(上手いこと言ったとは思っていない)。
そういう勝手さに救われてる部分もあるかもしれんがね、君……もう少し易しくってもいいんじゃないか。
こんな風に、失敗が続くと人生の是非にまで考えが及ぶというのはよろしくない例である。
とにかく寝るか、ギャグ漫画を読むかして忘れるべきだな。
ボッチにとってこうした心の傷は、時間が癒してくれるのを待つ他ないからだ。
Vtuberはなぜヒットしたのか
この頃『Vtuber』について考える。
何故考えるようになったかと言えば名前をよく聞くようになったからだが、そのカテゴリ自体が生まれたのは今から約2年も前らしい。
情報の波に乗り切れていない感じが否めない。
Vtuberについて私が考え始めた時期に合わせて、まるで示し合わせたように雑誌ユリイカでもVtuber特集が組まれた。
やはりこの頃のトレンドなのだろう。
というわけで、Vtuberとはなんたるかを答え合わせする前に、自分なりに考察してみようかと思う。
まず、現代において何故YouTuberが生まれたのか。
使い古された理論な気もするが、やはり『コンテンツの消費スピードの加速化』が大きいだろう。
インターネットの普及、それに伴い自分が必要とする情報だけを取捨選択して吸収する事ができるようになった。
以前何処かで、人に不快感を与える画像の読み込み時間は何秒か、という調査を見た覚えがあるが、そういうのも年々短くなっていくんだろうか。
まさに『欲しいものを欲しい時に欲しいだけ』が現代の娯楽のコンセプトだと言えるが、YouTuberはそんな今の時代にピッタリフィットしたジャンルと言えよう。
自分の興味がある企画だけを、早送りしたり戻したりして何度でも楽しめる。
CMで引っ張ったり決まった時間にしか見る事ができないTV番組とは、そこが決定的に違う。
あと、まとめサイトの無限ループに陥る時の感覚とも似ていると思う。
永遠に『次の動画』が再生される恐怖。
次の動画がつまらなかったら飛ばせばいい。
いやあ、本当に情報の飽和時代だなあ。
では、そんなYouTuberの二次元版であるVtuberは一体何なのか。
Vtuberとは即ち『バーチャルユーチューバー』、バーチャルなユーチューバーのことだ。
二次元のキャラクターが動画内で企画をこなし、視聴者はそれを見て楽しむ。
二次元キャラクターとは言え、もちろん3Dのモデルはちゃんと動くし、表情も豊かで、声を担当するのは『中の人』だ。
液晶画面の中でキャラクターが動くという意味ではアニメとなんら変わりはないが、 Vtuberの場合は視聴者との繋がりがより密になる。
中の人の存在と二次元キャラクターの融合、そして時には視聴者にレスポンスを返してくれたりするので、アニメの中のキャラクターよりもはるかに現実味があるのだ。
まさに『会いに行けるアイドル』ならぬ、『会いに行けるキャラクター』。
そう考えると、YouTuberとVtuberでは視聴者の楽しみ方が違うような気がするので、一概に一緒くたには出来ないな。
YouTuberの企画では面白さが第一に求められるが、Vtuberの場合は企画の面白さはもちろん、どれだけ視聴者と相互コミュニケーションを取る事ができるかも大きいような。
言わば、アイドル(既に知名度がある人物)がYouTuberをやるのと一般人がYouTuberをやるのとでは、売りの方向性が違うのと同じように。
Vtuberはなぜヒットしたのか。
そこらへんの構造をこんなウダウダな考察でなく、クッキリハッキリ解説してくれる記事を読みたいものであるがどうだろう。
やはり先日発売したユリイカを読むべきなのであろうか。
なんにせよまだまだ未知数なジャンルだと思うので、もっと色々な可能性を見てみたい。
あの夏と僕らについて『ピンポン THE ANIMATION』
今年も夏が近づいてきた。
栗の木の匂い、うだるような日差し、目に痛い青空。
そして私はこの時期になる度、『ピンポン』が見たくなる。
初めてピンポンを見た年から、なんとなく一年に一回くらいはまた見返して、かれこれもう4〜5回は見ているような気がする。
時々思い出したようにスマイルの鼻歌を口ずさむ。
何が私の琴線に触れているのか、少し冷静に考えてみる。
絵柄は好みが分かれそうな感じだ。何せ原作が松本大洋氏だから(?)。
ただ私は性根がひねくれているせいか、好みが分かれそうな絵柄が好みな傾向にある。
ストーリーは、平たく言えば卓球の話。ただ、本質的には『才能とヒーローの話』だと私は思う。
表向きは卓球の話だが、別に卓球に焦点をあてているわけではない。
スポーツアニメなら一試合を2〜3話使って、現実なら1秒のプレーを10秒くらい使って描いたりするものだが、ピンポンではサラッと描かれる。
まあサラッと、とは言っても表現の仕方がとても鮮やかでカッチョいいんだけども。
そう、このアニメはめちゃくちゃカッチョいいのだ。
「『ペコさん』、そう呼べ」
「愛してるぜ」
「ピンチの時にはオイラを呼びな!!
心の中で三回唱えろ!!
ヒーロー見参、ヒーロー見参、ヒーロー見参
そうすりゃオイラがやって来る」
「ホントに好きなら、強引にギュッと抱き締めてキスしてやりゃあいいんだよ」
「血は鉄の味がする」
ロックだ。とてもロックだ。
脳天を突き抜ける勢いでカッコいい。まさに爽快。
叫び出したいくらい気持ちいい。
普通、スポーツがテーマになると勝ち負けに目が行きがちだ。友情、努力、勝利。
しっとりした感動と、あの日見た夕陽に向かって駆け出す少年達。
アニメでは汗が光り、瞳は透き通って絵柄からは制汗剤の匂いがする。
『ピンポン』はそんな事ない。
ただひたすらにテンポ良く、まるで音楽のようにピンポン玉が飛んでいくのだ。
極彩色の湘南藤沢を、歪な形の少年達が全力疾走で駆ける夏。
まぶしいなあ、吐き出すくらいまぶしい。
指の間から零れ落ちるラムネの冷たさ、ベタつく海風、こめかみを這う汗の不快感。
灰色の体育館の階段はところどころひび割れて、何かよく分からないシミがついている。
プラスチックのチープな客席、生臭い冷房、血が引いてスッとする手足の感覚。
夏の魔力をここまでリズミカルに魅せてくるものだから、やっぱり超きもちいい。
キャラクターの中で誰を一番応援したいかと言われると、私はチャイナこと孔文革(コン・ウェンガ)を推す。
コームで髪をキュッと整えるところがカッコいいのだ。
卓球の国から日本のレベルの低い高校に飛ばされて、初めは辟易していた彼が、最後にはチームメイト達とワンタンを作ってカラオケに行くまで心を軽くするところがホッとする。
ちょっとニヒルで苦労人のいいヤツなんですよ。
私はまだ原作版を読んだことがないので、そこら辺も比べてみないといけないな。
絶対に負けない無敵のヒーロー。
彼は対峙する敵が強いほどニヤリと笑って、最後にはかならず勝ってしまう。
その力は圧倒的で、全てを征服してしまう。
そんなんだから、ヒーローと夏は似ているのかもしれないと思った。
だから私はヒーローと夏が好きなんだろう。
今年もまた夏がやってくる。
だから私はピンポンを見る。
暑が夏いぜ