ひとりべや

大学生のつれづれなる日記です

ニートと『選択』について

人間は、『選択』によって消耗するという事を切に実感したことがある。

 

昔、不登校の時期があった。
理由としては鬱病を患ったからであるが、当時は朝起きて布団から出ることが出来ず苦痛だったと記憶している。
まず、朝起きる。
そして重たい体をぶら下げた脳みそで、学校へ行くか否かを考える。
この時点でもう『選択』だ。
こういう時の解決策としては、そもそも考える事を放棄して機械的に朝の支度をする、というものがあるが、確かに正解だなと。
いちいち自分で自分に選択肢を用意させない、というのは色々と楽な事だ。

不登校になると、自分がどこの団体にも所属しない『個人』だという事を思い知る事になる。
当時の私は部活や習い事なんかもしていなかったものだから、余計に孤独だった。
人はきっと誰しも、肩書きが消えた時一番孤独を実感する生き物なんじゃないだろうか。


『個人』になると、目の前には無限の選択肢が用意されてしまう。
例えば学校や企業に所属しているうちは、平日は学校か会社へ行けばいいわけで、そこで何をするかというのは事前に決められているのだから楽なものだ。
いや、そりゃあ毎日の作業は楽じゃないけれど、社会の歯車でいるうちのほうが全然孤独感がないと思う(個人の解釈です)。
何も考えずただルーティンをこなす日々、そこに個人の選択が関わる事は少ない。

ただ、一人になるとどうだ。
毎日何も予定がない。
これは裏を返せば、毎日どうやって過ごすのか全て自分に委ねられているということだ。
毎日やる事を自分で決めなければならない孤独、疲労。
一切のやる気が出なくなる『鬱』というのは、選択に疲弊しきってしまった事への防衛装置か何かなんだろうなあ。
身体が、脳が選択をすることを拒んでるのが鬱なんだろうから。

 

いや鬱の話がしたいわけではなく、要するに『人間って社会の外にいる間が一番孤独よね』という話である。
大海に一人取り残され、360度何処へでも進んでいける状況がいちばんキツイ。
というのを、また実感し始めた日々である。